「留守」になる権利
秋晴れ。新しいブーツをはいて、足取りも軽く家を出る。
自分でも今日は機嫌がいいと思う。
バス停までは歩いてほんの二、三分である。その短い道すじの間に3人の男を見かけたが、3人とも携帯電話を使っていたので軽くおどろく。一人は自転車に乗りながら、一人は信号待ちながら、一人はバス停で−−−携帯電話にしゃべりかけていた。
すごい普通率だ。おそろしい。機嫌、崩れる。今日はたまたまだろうが、出会う人がみな携帯電話に向かってしゃべっているなんて、①そんな光景を毎日見せられたらたまらない。
七年前、ホンコンに行った時のことを思い出す。携帯電話を使っている人が多いのが不思議だった。知人は「ホンコンは住宅事情が悪く、エレベーターなしのビルが多いので、いったん家を出ると電話がかけにくいから」と説明した。公衆電話が少ないせいもあるかもしれないなぁと私は思った。
携帯電話に向かってしゃべっている姿はけっしてかっこいいものではない。まさか、そのあと、日本でもこんなにはやることになろうとは …… 。私はきらいだが、②日本人のメンタリティにはすんなりなじんでしまったようだ。
何がイヤって、「ゆくえをくらます」ということができなくなるところがイヤですね。昔の言葉で言うと「蒸発」できなくなるところ。
携帯電話というのはどこにいてもつかまえることができる、連絡がつく−−−つまり「留守」状態を奪われるということだ。
「留守」することも許されないなんて……なんとうっとうしく窮屈なことだろう。ほとんど人権問題じゃないだろうか。人は誰でも「留守」になる権利がある!!
人間は、この世の中いろいろなしがらみの中で生きている。少なからず道に③クサリを巻きつけられて、この世の中につなぎとめられているようなものだけれど……そのクサリはできるだけ長く、アソビ(=ユトリ)があってほしいものだ。
ポケベルだの携帯電話だのというのは、世の中と自分をつなぐクサリをギチギチに短くされるようなものじゃないか。
仕事の性質上どうしても必ずという場合は仕方ないが、友だちや恋人との付き合いの中でああいうものを使う人の気が知らない。
「愛」より「管理」の気配を帯びてしまって、野暮なものだと思いますけどねぇ。よけいなお世話ですか。
(1996年11月17日号)